保福寺の仁王像 [散歩]
千手(せんぞ)のイチョウ [散歩]
桐原城跡 [散歩]
道端のお地蔵様 [散歩]
梓川アカデミア館を訪れる。 [散歩]
今日(2012年3月3日)の松本は寒い一日でした。
午前中,松本市立博物館で,ひな祭りの企画展を見て,同じく博物館で行われた「第19回学都松本・博物館「勧館楽学」対談《コトヨウカ調査を語ろう2》」を拝聴した後,梓川地区へと自転車を走らせました。
今日訪れた《梓川アカデミア館》は,松本まるごと博物館の一つで,松本の達人認定証で入れる施設です。
松本まるごと博物館は,昨年,安曇資料館を訪れて,全館制覇したと思っていたのですが,ここが残っていました。
1階では,ちょうど,第11回信州梓川賞展(絵画展)が開かれていました(入場無料)。
2階は,有料(大人200円・小人100円)で,梓川の歴史が学べます。
午前中,松本市立博物館で,ひな祭りの企画展を見て,同じく博物館で行われた「第19回学都松本・博物館「勧館楽学」対談《コトヨウカ調査を語ろう2》」を拝聴した後,梓川地区へと自転車を走らせました。
今日訪れた《梓川アカデミア館》は,松本まるごと博物館の一つで,松本の達人認定証で入れる施設です。
松本まるごと博物館は,昨年,安曇資料館を訪れて,全館制覇したと思っていたのですが,ここが残っていました。
1階では,ちょうど,第11回信州梓川賞展(絵画展)が開かれていました(入場無料)。
2階は,有料(大人200円・小人100円)で,梓川の歴史が学べます。
岩岡の火打岩 [散歩]
杉田久女の墓 [散歩]
全久院の今 [散歩]
松本市深志3丁目の松本市民芸術館の西隣,深志神社の北隣に位置する全久院。
もとは,中央2丁目の女鳥羽川南岸にありました。
松本藩主の戸田家の菩提寺でしたが,1870(明治3)年8月から翌年11月までに松本に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐の中,廃寺となりました。
仏像仏具は焼却され,歴代藩主の位牌や経典は女鳥羽川に流されました。
しかし,1873(明治6)年には,開智学校として利用され,1876(明治9)年,この地に,解体移築されて 《旧開智学校》として重要文化財に指定されている校舎が新築されています。
その後,全久院は,1877(明治10)年に現在地にて復興しました。ちなみに,この地はもとは瑞松寺(現在,源池の井戸の東隣)があった場所とのことです。
もとは,中央2丁目の女鳥羽川南岸にありました。
松本藩主の戸田家の菩提寺でしたが,1870(明治3)年8月から翌年11月までに松本に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐の中,廃寺となりました。
仏像仏具は焼却され,歴代藩主の位牌や経典は女鳥羽川に流されました。
しかし,1873(明治6)年には,開智学校として利用され,1876(明治9)年,この地に,解体移築されて 《旧開智学校》として重要文化財に指定されている校舎が新築されています。
その後,全久院は,1877(明治10)年に現在地にて復興しました。ちなみに,この地はもとは瑞松寺(現在,源池の井戸の東隣)があった場所とのことです。
雪の義民塚 [散歩]
松本内田の御柱 [散歩]
大安楽寺で大わらじ歩き [散歩]
2012年も常念岳から [散歩]
一年のトリは常念岳 [散歩]
2011年12月31日,松本市は,厳しい寒さながらも,快晴。
いつものとおり,いのちと平和の森から,常念岳を望みました。
本年は,2月の松本検定の受験をきっかけに,松本市内を自転車で駆け巡りました。
これまで知らなかった松本の一面をたくさん垣間見ることができたと思います。
3月11日の東北地方太平洋沖地震による東日本大震災,翌12日の長野県北部の地震,6月30日の長野県中部(松本)の地震等,災害の多い一年でしたが,東日本大震災の被災地と長野県栄村の復興はこれからも続きます。福島第一原子力発電所の事故の処理,そして,原子力発電に代わるエネルギー対策も現在及び未来の重い課題です。
来年は辰年。いい未来に少しでも近づくことを願います。
いつものとおり,いのちと平和の森から,常念岳を望みました。
本年は,2月の松本検定の受験をきっかけに,松本市内を自転車で駆け巡りました。
これまで知らなかった松本の一面をたくさん垣間見ることができたと思います。
3月11日の東北地方太平洋沖地震による東日本大震災,翌12日の長野県北部の地震,6月30日の長野県中部(松本)の地震等,災害の多い一年でしたが,東日本大震災の被災地と長野県栄村の復興はこれからも続きます。福島第一原子力発電所の事故の処理,そして,原子力発電に代わるエネルギー対策も現在及び未来の重い課題です。
来年は辰年。いい未来に少しでも近づくことを願います。
松本市島立から常念岳を望む [散歩]
今日(2011年12月11日)も松本市は晴天に恵まれました。
特にあてもなかったので,久し振りに,松本まるごと博物館めぐりでもしようかと思い立ち,自転車に乗って,のんびり散策。
最初に,松本市歴史の里に向かいましたが,その途中,松本市島立にある長野県松本合同庁舎の裏手を通ったとき,常念岳がきれいに見えたので写真に収めました。
何ということない平凡な写真ですが,「松本では,普通にこんな風景が楽しめるんだぞ。」という自慢でもあります。
ちなみに,松本まるごと博物館では,有料施設13館のスタンプを集めると記念品がもらえます。先日,安曇資料館で完集し,後日,松本市立博物館(本館)に提示したところ,「松本まるごと博物館ガイドブック」をいただきました。以前から購入しようかと思っていたので思わずうれしくなりました。ただ,惜しむらくは,2008年3月の発行で,波田地区の情報が含まれていません。改訂版の発行が期待されます。
特にあてもなかったので,久し振りに,松本まるごと博物館めぐりでもしようかと思い立ち,自転車に乗って,のんびり散策。
最初に,松本市歴史の里に向かいましたが,その途中,松本市島立にある長野県松本合同庁舎の裏手を通ったとき,常念岳がきれいに見えたので写真に収めました。
何ということない平凡な写真ですが,「松本では,普通にこんな風景が楽しめるんだぞ。」という自慢でもあります。
ちなみに,松本まるごと博物館では,有料施設13館のスタンプを集めると記念品がもらえます。先日,安曇資料館で完集し,後日,松本市立博物館(本館)に提示したところ,「松本まるごと博物館ガイドブック」をいただきました。以前から購入しようかと思っていたので思わずうれしくなりました。ただ,惜しむらくは,2008年3月の発行で,波田地区の情報が含まれていません。改訂版の発行が期待されます。
いのちと平和の森から常念岳を望む [散歩]
徳運寺 [散歩]
林城跡 [散歩]
信濃の守護大名小笠原氏の居城であった林城。
小笠原氏は,1334年(建武年間)から府中と呼ばれていた松本地域を支配していましたが,1550(天文19)年,武田信玄に攻められた小笠原長時は敗走し,林城は戦わずして落城したとのこと。
武田信玄は,松本平を治める城として,林城ではなく,深志城を選びました。
そして,武田家が滅んだ後に深志城に入った小笠原貞慶(長時の子)が,城の名称を松本城と改め,これによって「松本」の名前が誕生しました。
ちなみに,林城は,山の上です。自転車で登れますが,かなりの急坂です。私は電動補助自転車で登りましたが,ここで電力の大部分を消費しました。でも,散策路をマウンテンバイクで横断してきた元気いっぱいの学生の集団に出会いました。恐るべし。
小笠原氏は,1334年(建武年間)から府中と呼ばれていた松本地域を支配していましたが,1550(天文19)年,武田信玄に攻められた小笠原長時は敗走し,林城は戦わずして落城したとのこと。
武田信玄は,松本平を治める城として,林城ではなく,深志城を選びました。
そして,武田家が滅んだ後に深志城に入った小笠原貞慶(長時の子)が,城の名称を松本城と改め,これによって「松本」の名前が誕生しました。
ちなみに,林城は,山の上です。自転車で登れますが,かなりの急坂です。私は電動補助自転車で登りましたが,ここで電力の大部分を消費しました。でも,散策路をマウンテンバイクで横断してきた元気いっぱいの学生の集団に出会いました。恐るべし。
水殿ダム(みどのだむ) [散歩]
梓川水系にある安曇三ダムの真ん中は《水殿ダム》。
奈川渡・稲核ダムと同様,アーチ式ダムで,東京電力の水力発電を担っています。
水殿発電所は,揚水発電といい,夜間の余裕電力で下のダムの水を上のダムに汲み上げて再利用するという優れもの。
無駄なダムの建設は単なる自然破壊にしかなりませんが,梓川水系のダムは,大きな犠牲の上で,社会貢献しています。
そこから,眺める景色は最高です。写真は,下流を望んだもの。上流も美しく,上高地や乗鞍にお出かけの際は,是非,立ち寄っていただきたいと思います。バスで行くなら,水殿ダムバス停で途中下車(ただし,次のバスの時間を確かめる必要あり。)。自家用車なら,道の駅風穴の里に停車してすぐ。
奈川渡ダムは車道ですが,水殿ダムは歩行者のみですので,のんびりできます。
奈川渡・稲核ダムと同様,アーチ式ダムで,東京電力の水力発電を担っています。
水殿発電所は,揚水発電といい,夜間の余裕電力で下のダムの水を上のダムに汲み上げて再利用するという優れもの。
無駄なダムの建設は単なる自然破壊にしかなりませんが,梓川水系のダムは,大きな犠牲の上で,社会貢献しています。
そこから,眺める景色は最高です。写真は,下流を望んだもの。上流も美しく,上高地や乗鞍にお出かけの際は,是非,立ち寄っていただきたいと思います。バスで行くなら,水殿ダムバス停で途中下車(ただし,次のバスの時間を確かめる必要あり。)。自家用車なら,道の駅風穴の里に停車してすぐ。
奈川渡ダムは車道ですが,水殿ダムは歩行者のみですので,のんびりできます。
松本まるごと博物館めぐりの最後は安曇資料館 [散歩]
今年(2011年)2月26日に始めた《松本まるごと博物館めぐり》。唯一残っていた《安曇資料館》へ行ってきました。
本日(2011年11月12日)の松本は晴。
自宅から新島々バスターミナルまで,電動補助自転車で約1時間。そこから,安曇資料館がある水殿ダムバス停までは約15分。
バスを降りると,お猿さんが出迎えてくれました。
安曇資料館を入るとまず目に入るのが,先日訪れた《雑炊橋》の模型。現在は,コンクリート製の橋ですが,当時は木製の芸術的な橋だったのですね。
安曇資料館のすぐ近くに《風穴小屋》があります。中は,摂氏8度程度。天然の冷蔵庫です。風穴とは,地下水で発生した冷風が岩場を伝って地上に出る場所。そこを石で囲ったものが風穴小屋。昔は蚕の種を貯蔵していたとのことですが,現在は,松本の銘酒が保存されていました。この銘酒,風穴貯蔵酒として出荷されます。
本日(2011年11月12日)の松本は晴。
自宅から新島々バスターミナルまで,電動補助自転車で約1時間。そこから,安曇資料館がある水殿ダムバス停までは約15分。
バスを降りると,お猿さんが出迎えてくれました。
安曇資料館を入るとまず目に入るのが,先日訪れた《雑炊橋》の模型。現在は,コンクリート製の橋ですが,当時は木製の芸術的な橋だったのですね。
安曇資料館のすぐ近くに《風穴小屋》があります。中は,摂氏8度程度。天然の冷蔵庫です。風穴とは,地下水で発生した冷風が岩場を伝って地上に出る場所。そこを石で囲ったものが風穴小屋。昔は蚕の種を貯蔵していたとのことですが,現在は,松本の銘酒が保存されていました。この銘酒,風穴貯蔵酒として出荷されます。
松岳寺のビャクシン [散歩]
昨日(2011年11月5日)は,松本市芳川公民館に用があり,時間に余裕があったので,近くを少し散歩しました。
出会ったのは,松岳寺のビャクシン。
松岳寺は,木曽義仲の嫡子,清水冠者義高が武蔵へ向かう際に参詣した場所とのこと。
そして,ビャクシンとは,ヒノキ科の針葉樹。
この松岳寺のビャクシンは,推定樹齢400年以上。樹高5メートル,根回り2メートル。枝を四方に広げた見事な巨木です。
松岳寺には,道路に面し,3本のケヤキの巨木もそびえています。
この後,芳川公民館に戻り,劇団であい舎による井上ひさしさんの戯曲《イーハトーボの劇列車》を観劇。会場は,入りきれない方が出るほどの超満員。3時間以上にわたる気迫の演技に魅せられました。
17時20分頃に閉演し,表に出ると,あいにくの雨。
念のため持参していた雨合羽を着て,何とか帰宅しました。
出会ったのは,松岳寺のビャクシン。
松岳寺は,木曽義仲の嫡子,清水冠者義高が武蔵へ向かう際に参詣した場所とのこと。
そして,ビャクシンとは,ヒノキ科の針葉樹。
この松岳寺のビャクシンは,推定樹齢400年以上。樹高5メートル,根回り2メートル。枝を四方に広げた見事な巨木です。
松岳寺には,道路に面し,3本のケヤキの巨木もそびえています。
この後,芳川公民館に戻り,劇団であい舎による井上ひさしさんの戯曲《イーハトーボの劇列車》を観劇。会場は,入りきれない方が出るほどの超満員。3時間以上にわたる気迫の演技に魅せられました。
17時20分頃に閉演し,表に出ると,あいにくの雨。
念のため持参していた雨合羽を着て,何とか帰宅しました。
安曇野を歩く(その2)大王わさび農場 [散歩]
あずみのやまびこ自転車道の終点(起点)から,国道147号線(糸魚川街道)に入り,松本市方面へ南下すると,途中に大王わさび農場への案内標識が。
その標識に従い左折し,途中,東光寺(願いがかなう仁王様の下駄や御戒壇めぐり),等々力家(300円・庭園が見事),早春賦歌碑(穂高川沿い,わさび畑あり)と道草をくい,《大王わさび農場》へ。
観光客であふれていましたが,NHKテレビ小説《おひさま》で登場した百花日(そばや,絵本の家,陽子の家)のセットは,もはや完全に撤去され,更地となり,案内板だけが残っていました。
ここでは,本わさびソフトクリーム(330円)を食しました。わさびの香りがほんのりとする爽やかな味でした(わさび味ではないのであしからず。帰宅後に知りましたが,大王わさび農場ホームページに50円割引券あり!)。
ここから一路松本へ。なるべく自動車の通らない脇道を選んで進みましたが,電動補助自転車の電池が残り少なくなったため,急な登り坂を除き,電源を切って進んだため,緩やかな登り坂と向かい風に苦しめられました。
来る時の《あづみのやまびこ自転車道》は,拾ヶ堰に沿って進みますが,実は緩やかな下り坂。出発時点の電気残量80%(もともとは遠出するつもりがなく,充電を怠りました。)で,《いのちと平和の森》までの急坂でかなり電力を使ってしまったにもかかわらず,天気がいいからと調子に乗ってしまった,いつもながらの無計画さを痛感しました。芥川龍之介の《トロッコ》を少し思い出しました。
その標識に従い左折し,途中,東光寺(願いがかなう仁王様の下駄や御戒壇めぐり),等々力家(300円・庭園が見事),早春賦歌碑(穂高川沿い,わさび畑あり)と道草をくい,《大王わさび農場》へ。
観光客であふれていましたが,NHKテレビ小説《おひさま》で登場した百花日(そばや,絵本の家,陽子の家)のセットは,もはや完全に撤去され,更地となり,案内板だけが残っていました。
ここでは,本わさびソフトクリーム(330円)を食しました。わさびの香りがほんのりとする爽やかな味でした(わさび味ではないのであしからず。帰宅後に知りましたが,大王わさび農場ホームページに50円割引券あり!)。
ここから一路松本へ。なるべく自動車の通らない脇道を選んで進みましたが,電動補助自転車の電池が残り少なくなったため,急な登り坂を除き,電源を切って進んだため,緩やかな登り坂と向かい風に苦しめられました。
来る時の《あづみのやまびこ自転車道》は,拾ヶ堰に沿って進みますが,実は緩やかな下り坂。出発時点の電気残量80%(もともとは遠出するつもりがなく,充電を怠りました。)で,《いのちと平和の森》までの急坂でかなり電力を使ってしまったにもかかわらず,天気がいいからと調子に乗ってしまった,いつもながらの無計画さを痛感しました。芥川龍之介の《トロッコ》を少し思い出しました。
安曇野を歩く(その1)拾ヶ堰 [散歩]
今日(2011年10月16日)の松本は,日が昇るにつれて快晴へ。
そこで,常念岳を眺めるために,10月10日に訪れた《いのちと平和の森》を再度訪れました。
アルプス公園東入口駐車場の横をすぎ,きつい坂を電動補助自転車の力を借りて登り詰め,常念岳を眺めて,日常生活からの気分転換を果たしました。
そこから戻るつもりでしたが,途中で《松本トンネル方面》に右折し,急降下。
松本トンネル料金所を右手に見ながら,ラーラ松本へ。
ここから松本市街へ向かうつもりでしたが,天気がいいので,ついついラーラ松本横のあずみの橋《あずみのやまびこ自転車道》に足(自転車)を踏み入れてしまいました。
あずみの橋を超えると松本市のお隣の安曇野市。
しばらくは,常念岳を正面に見ながら拾ヶ堰(じっかせぎ)に沿って西へ。
堀金小学校前から,拾ヶ堰は北に曲がり,自転車道も北へ。
やがて拾ヶ堰は終わり,烏川に注ぎ込み,自転車道は,しばらく烏川に沿って北東に進み,大糸線と国道147号線をくぐったところで終わりました。
写真の《拾ヶ堰》は,松本市内の奈良井川新橋付近から取水し,延々15キロメートルにも及ぶかんがい用水で,江戸時代(1816(文化13)年)に手掘り工事ながら約3か月間で完成したとのことです。
そこで,常念岳を眺めるために,10月10日に訪れた《いのちと平和の森》を再度訪れました。
アルプス公園東入口駐車場の横をすぎ,きつい坂を電動補助自転車の力を借りて登り詰め,常念岳を眺めて,日常生活からの気分転換を果たしました。
そこから戻るつもりでしたが,途中で《松本トンネル方面》に右折し,急降下。
松本トンネル料金所を右手に見ながら,ラーラ松本へ。
ここから松本市街へ向かうつもりでしたが,天気がいいので,ついついラーラ松本横のあずみの橋《あずみのやまびこ自転車道》に足(自転車)を踏み入れてしまいました。
あずみの橋を超えると松本市のお隣の安曇野市。
しばらくは,常念岳を正面に見ながら拾ヶ堰(じっかせぎ)に沿って西へ。
堀金小学校前から,拾ヶ堰は北に曲がり,自転車道も北へ。
やがて拾ヶ堰は終わり,烏川に注ぎ込み,自転車道は,しばらく烏川に沿って北東に進み,大糸線と国道147号線をくぐったところで終わりました。
写真の《拾ヶ堰》は,松本市内の奈良井川新橋付近から取水し,延々15キロメートルにも及ぶかんがい用水で,江戸時代(1816(文化13)年)に手掘り工事ながら約3か月間で完成したとのことです。
いのちと平和の森 [散歩]
アルプス公園東入口駐車場の前の道を更に北上すると左手に《いのちと平和の森》があります。
これは,日野原重明医師の提唱による記念植樹とのこと。
道路に面した山の斜面に人それぞれが植樹し,メッセージを刻んだ陶器が添えられています。
この《いのちの平和の森》を登ると,写真の小さな鐘がありますが,ここから,北アルプスが眺望できます。
今日(2011年10月10日)は,訪れたのが正午頃ということもあり,山は霞んでいましたが,冬になれば,空気が澄んで,常念岳を始め,美しい北アルプスの山々と眼下に広がる安曇野が望めそうです。
しかし問題は,寒さと,ここに来るまでのきつい登り坂。自動車ならあっという間でしょうが,それではおもしろくないし……。
これは,日野原重明医師の提唱による記念植樹とのこと。
道路に面した山の斜面に人それぞれが植樹し,メッセージを刻んだ陶器が添えられています。
この《いのちの平和の森》を登ると,写真の小さな鐘がありますが,ここから,北アルプスが眺望できます。
今日(2011年10月10日)は,訪れたのが正午頃ということもあり,山は霞んでいましたが,冬になれば,空気が澄んで,常念岳を始め,美しい北アルプスの山々と眼下に広がる安曇野が望めそうです。
しかし問題は,寒さと,ここに来るまでのきつい登り坂。自動車ならあっという間でしょうが,それではおもしろくないし……。
大野田のフジキ [散歩]
松本電鉄上高地線の終着駅《新島々》と松本市役所安曇支所の中間,国道158号線・野麦街道沿いに保健福祉センターがあり,その脇から国道を外れて坂道を上り,途中案内板にそって進むと,神社の境内に《大野田のフジキ》があります。
松本市発行の「松本まるごと博物館マップ」に《大野田のフジキ》とあり,いったい何のことかと思い,藤の木かとも想像したのですが,行ってみると写真のような大木(幹の周囲3.5メートル,高さ20メートルとのこと。)。
説明板によれば,「フジキ」とは,本州(福島県以西)、四国、九州に分布するマメ科の植物。
生まれて初めて聞く名前だと思ったところ,説明板にも「この付近では見かけない種類なので、地元では「ナンジャモンジャの木」と呼んでいました。」とありました。
いっそのこと《大野田のナンジャモンジャの木》としてしまえばいいのにと思いました。
松本市発行の「松本まるごと博物館マップ」に《大野田のフジキ》とあり,いったい何のことかと思い,藤の木かとも想像したのですが,行ってみると写真のような大木(幹の周囲3.5メートル,高さ20メートルとのこと。)。
説明板によれば,「フジキ」とは,本州(福島県以西)、四国、九州に分布するマメ科の植物。
生まれて初めて聞く名前だと思ったところ,説明板にも「この付近では見かけない種類なので、地元では「ナンジャモンジャの木」と呼んでいました。」とありました。
いっそのこと《大野田のナンジャモンジャの木》としてしまえばいいのにと思いました。
稲核ダム [散歩]
稲核(いねこき)ダムは,梓川に設けられた安曇三ダムの一つで,最も下流(松本市街寄り)にあります。
ほかの二つは,下流から,水殿(みどの)ダムと奈川渡(ながわど)ダムで,奈川渡ダムは,上高地方面と野麦峠方面の分岐点にあります。
これらは,いずれも,アーチ式ダムで,東京電力の水力発電を担っています。
ちなみに,奈川渡ダムの右岸に東京電力の「梓川テプコ館」がありましたが,2011年3月11日の東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故を受け,同日から閉館となり,そのまま,同年6月に廃館となりました。
実は,ここまで,松本市街から電動補助自転車でやって来ました。目的地は,この先の安曇資料館だったのですが,国道のくせに路肩もほとんどなく,自転車で進むには危険と判断し,挫折して戻りました。
自動車の運転手の皆さんは,さぞかし,危険で邪魔な自転車が走っていると思ったでしょうが,自転車乗りの身としては,逆の発想です。
ほかの二つは,下流から,水殿(みどの)ダムと奈川渡(ながわど)ダムで,奈川渡ダムは,上高地方面と野麦峠方面の分岐点にあります。
これらは,いずれも,アーチ式ダムで,東京電力の水力発電を担っています。
ちなみに,奈川渡ダムの右岸に東京電力の「梓川テプコ館」がありましたが,2011年3月11日の東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故を受け,同日から閉館となり,そのまま,同年6月に廃館となりました。
実は,ここまで,松本市街から電動補助自転車でやって来ました。目的地は,この先の安曇資料館だったのですが,国道のくせに路肩もほとんどなく,自転車で進むには危険と判断し,挫折して戻りました。
自動車の運転手の皆さんは,さぞかし,危険で邪魔な自転車が走っていると思ったでしょうが,自転車乗りの身としては,逆の発想です。
雑炊橋 [散歩]
国道158号線・野麦街道を松本市街から上高地方面に進み,安曇支所を過ぎてすぐ右に下ると雑炊橋があります。
現在の橋は,昭和62年竣工の架け替えられたコンクリート製のものですが,元祖は,信州で初めて架けられた橋と言われています。
橋のたもとに,少々読みづらいですが,雑炊橋の由来を記した碑が立っています。
この碑によると雑炊橋の読み方は「ぞうしはし」ですが,「新松本を楽しむ本」では「ぞうすいばし」となっています。
この橋には,恋伝説があり,川の東側の「橋場」にはお節という娘が,西側の「島々」には清兵衛(石碑では「清明」)という若者が住んでおり,恋仲になったが,逢うためには下流までたいへんな迂回が必要で,二人は,橋を架けるため,雑炊を食べてお金を貯め,建設費の一部にと差し出したというもの。
とにもかくにも,古来の人の情熱で橋が架けられたことは間違いありません。
現在の橋は,昭和62年竣工の架け替えられたコンクリート製のものですが,元祖は,信州で初めて架けられた橋と言われています。
橋のたもとに,少々読みづらいですが,雑炊橋の由来を記した碑が立っています。
この碑によると雑炊橋の読み方は「ぞうしはし」ですが,「新松本を楽しむ本」では「ぞうすいばし」となっています。
この橋には,恋伝説があり,川の東側の「橋場」にはお節という娘が,西側の「島々」には清兵衛(石碑では「清明」)という若者が住んでおり,恋仲になったが,逢うためには下流までたいへんな迂回が必要で,二人は,橋を架けるため,雑炊を食べてお金を貯め,建設費の一部にと差し出したというもの。
とにもかくにも,古来の人の情熱で橋が架けられたことは間違いありません。